Art
アーティストの工房に眠る金鉱
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私が犬の名前を尋ねると、「イスリンキ」と彼、画家のエンフボルドは答えた。数年前にコンセプチュアル・アーティストの旅行に一緒に行った彼の友人である韓国人アーティストは、草原で子犬を見つけ、その子犬を大層気に入り手放そうとしなかった。そのため、エンフボルドは、その毛むくじゃらの犬を飼うことにした。エンフボルドは息子のエンフマンライが好きなぬいぐるみを思い出し、その子犬にイスリンキという名前を付けた。
イスリンキは、光沢のある黒い毛を持ち、耳は直立しており、先の部分が折り曲がっていて、とても洗練された容姿をしている。私たちがエンフボルドの庭に足を踏み入れると、犬の警戒心と好奇心が同居したような吠える声が響き渡った。犬は柱に繋がれており、ふさふさとした尻尾を振りながら私の手の平を、好奇心旺盛に匂いを嗅いだ。イスリンキは、現代的かつポストモダン的なクールな性格があるようだ。信頼できる飼い主の側に立つ客を良く見ている。
エンフボルドは、庭中に散らばっているラクダの凍った皮を私に見せた。ラクダの皮は、彼の故郷であるウブルハンガイ県の銅のような赤い色の土で作られた染料で染められ、乾燥させたものだった。画家は、庭に眠る「金鉱」の中から興味深いものをいくつか取り出し、紹介してくれた。まるで家にきた友だちに宝物を自慢する子どものように。庭中に散らかっている物は、エンフボルドにとって宝の山である。芸術家は、普通の人が気にも止めないような廃棄物の中から宝を見つけ、評価することができる。
「採掘2024」は、エンフボルドが十数年にわたって紹介してきたシリーズ展示会の第5回目の個展である。彼はこの個展でモンゴルの無形的価値観の源である、自然環境と遊牧文化遺産の保護と継承をテーマとして創作活動を続けている。エンフボルドの芸術におけるポストモダンの性質は、開発途上国および絶えず変化し続ける社会の一部であり、芸術家としてそれを敏感に感じ取り、自分の作品を通じて表現している。
ラクダの皮は、高さ3mの金属パネルに取り付けられ、8つの部分からなるインスタレーション・アートが作られている。タイトルは「荒廃した土地で取り残されたもの」という。この作品のタイトルにある「取り残された者は“Duldegsed”という言葉で表現されている。Duldegsedという言葉の持つ意味は、残る、捨てられる、迷子になる、放浪する、耳が聞こえない、没頭するという単語の繋がりを表している。この言葉はエンフボルドによって作られた言葉である。
柔らかいラクダの皮と硬質な金属パネルは、その質感で全く真逆のものである。これは、人類が進歩の途上で残してきた消えることのない爪痕である自然破壊への明確なシグナルと言える。金属パネルの鋭く、冷たい色は、ラクダの皮という有機物の温かみのあるオレンジ色や暖色とは対照的であり、自然の大切さを訴える芸術家の心を表しているようである。
中央部にパラボラアンテナが置かれ、そこに向けて梯子が取り付けられている作品がある。「私は、これを鏡だと想像しています」と、エンフボルドは語る。表に見えるこの部分は“人類の賢明な思考”という目的があり、しかしその背後に不確実性が反映されているようだ。
作品の右端には、錆びたノコギリに包まれた家畜の皮が垂直に取り付けられている。これは、他の作品に見られるラクダの皮から突き出ている錆びたワイヤーとも共通している。これらは人々に深い傷のように心を突き刺さる感覚を覚えさせる。錆びた鉄棒やワイヤーが、かつて生きていた動物を突き刺したり、巻き付いたりすることによって残る跡は、自然に腐るはずのプロセスを強制的に止めているように見える。絡み合う対照的な層は、ネジやフックで分離され、互いに間隔を持って吊るされている。これら8つの作品群を見て回る際、人々は原材料の層と層の間に映る影の影響、「荒廃した土地で取り残されたもの」の力強さを感じるだろう。
見る者の空間認識を高めることは、インスタレーション・アートの長所の1つである。空間感覚は、エンフボルドの芸術作品における重要な意味を持つ要素の1つである。これが彼のコンセプチュアルな作品、パフォーマンス、抽象絵画、創造的な実験などによって表現される。
エンフボルドの抽象画は、まるで空間的な詩のようだと言える。彼は土壌、灰、家畜の糞、鉄の錆、枯れた草、家畜の蹄、家畜の焼印、家畜の内蔵、歴史的な物の残骸など、オーガニックなものや無機質なものが原材料として使われている。これらを原材料で染色したり、飾ったりして作られた抽象絵画は、古代遊牧民の魂と大地の暖かみを感じさせる。モノトーンの視覚的な地形は、遊牧民の歴史と文化、人間と自然が調和して暮らしていた時代を物語っているかのように、見る人の心を魅了する。自然への崇拝は、遊牧民の教育の重要な側面である。エンフボルドの抽象画には、この伝統文化遺産への崇拝、生物および無生物の調和の取れた存在感への祈りが感じられるよう、芸術家の心が込められている。彼の絵画の構図における大地のような一貫性のある空間的調和は、エネルギーを回復させ、視覚に自然なバランスを取り戻すグラウンディング効果に近いものがある。
エンフボルドは、フィンランドのキュレーターであるアンヌ・ウィレニウスが2009年にオランダのロッテルダムで開催したアート・レジデンス展に参加した。彼は、まさに遊牧民的なやり方で、小さなゲル1張りに荷物を詰め込み、初の本格的な海外クリエイティブ・ミッションへと飛び立った。彼は3ヵ月間、コンセプチュアル・アートの実験とパフォーマンス・アートを小さなゲルと一緒に紹介し、異国の地で言葉が通じない人々に作品を紹介した。この体験は、彼に忘れがたい印象を与え、それ以来、彼のパフォーマンス・アートにおいてインスピレーションの灯火であり続けている。「海岸都市に住む人々は、別の意味で美しいエネルギーと感性を持っているということを、私は作品を作る中で感じた」とエンフボルドは回想した。
空間の概念と感覚は、地理的、物理的、文化的、あるいは関係的なものであっても、アーティストが活動する環境によって流動的になるようだ。空間とその無限の広がりに対するモンゴルの伝統的な遊牧民の理解は、今日のプライバシー、財産、秩序、慣行の概念が優先される都市居住地に表現されるという矛盾した認識を生み出す。エンフボルドのパフォーマンスは、人間の存在と逆説的な状況を物語っている。ある意味、このパフォーマンスは自然とモンゴルの伝統的な家庭の囲炉裏へのオマージュでもある。
エンフボルドと彼の妻でアーティストのムングンツェツェグには3人の子どもがいる。彼は、私にこう言った。「父親として、子どもたちが大人になった時に受け継ぐ環境を心配している。私は自分の作品を通して、人々が自然の尊さと儚さを忘れないようにすることを訴えている。私は、それが人間の肉体と、魂の唯一の真の栄養源だと思う。私は展覧会を通じて、人間と自然との繋がりは断ち切られるものではなく、大切に育まれるべきものであることを示したいと思っている」と述べた。
鉱山開発と消費主義によってもたらされたモンゴル社会の急速な変化は、多くの深刻な問題を引き起こしている。人間自身が自然の一部であり、創造と破壊の両方の力を持ったため、エンフボルドの展覧会における“採掘”の意味は、採掘という概念にユニークな視点をもたらす。
人間と自然が調和のとれた交流を続けるために、どのようにして伝統的な遊牧民の知恵を守り、どのようにして大地を大切に扱い、そして長くその恩恵を受けられるかという問題を少し考えて見ると、もし進歩を成し遂げる過程で自然が破壊すれば、私たちが熱望し、努力している進歩という概念は無意味になってしまうのではないだろうか。その過程で、人類も含めて取り返しのつかないダメージを全てに与えることになるのではないだろうか。■
「採掘2024」展覧会は、Bコンテンポラリー・アートギャラリーで2月4日まで展示される。
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